私の人生設計を完全に破壊しつくした交通事故

大学4年次の4月でした。私が夜、帰宅しようとして、大学構内のバイク置き場からスクーターに乗って帰ろうとしました。その時は良かったのですが、問題はその後でした。大学の門を出て、大学前の坂道を通過したところに三叉路があり、そこで信号待ちをしました。そして、信号が青に変わって発車し、緩い坂道を下って直ぐに、私のスクーターは後輪が右に滑る感じになり、操縦不能となりました。そして、私は、対向車線から来た乗用車の右前からぶつかり、私の身体は背中から路面に落ちました。

幸い、私は身体が落ちた時に両手を路面に着けていたので、背中は痛くありませんでしたが、右ひざが酷く痺れる様な状態でした。そして、両手については、全ての指が酷く痛みました。私の所には、数名の男がやってきました。そして、一人の男が、「バイクが車の右前によろける感じでぶつかった。」と言いました。それだけでなく、別の男が「酒は入っていない様だな。」と言い、いきなり私のフルフェイスのヘルメットを取ろうとしました。

普通、こういう状態では、頭を打っている虞があるので動かさないのが普通ですが、それでもその男がヘルメットを取ろうとするので、私はシールドの所に手を入れてかけていた眼鏡を外し、ヘルメットを取りました。それを見たその男は、「あっ、あいつだ。ざまあみろ!」と言いました。また、別の男は「どうする?俺の車で病院に連れて行くか?」と言ったので、私は「救急車を呼んで下さい。」と言いました。普通、こういう時は事故の当事者や目撃者は消防署に連絡して救急車を呼んだり、警察に連絡するのが本筋だと思われるのに、それを全くしようとしないのが不思議でした。

そして、救急車が来て、私は担架に載せられて救急車で病院へ搬送されました。救急隊員の人は、この時間では他の市の病院しか開いていないと言っていたのですが、私は、病院の名前を聞いて嫌な感じがしました。その理由は、私が1年次の春に、他学部の友達が体育実技の時間に怪我をして通院していた評判の悪い病院だったのが私の搬送される病院だったからです。搬送先の病院の救急外来に着くと、救急隊員の人が「歩いて下りてくれるか?」と訊いて来ました。私は、交通事故に遭って足を怪我していると判っている人間に対してこの様な事をいう救急隊員の人の頭の中を疑いました。ですが、そこでガタガタ言っていても、治療が遅れるだけなので「肩を貸して下さい。」と言って救急隊員の人に肩を貸して貰って、救急外来に入りました。

当直医は、私にレントゲンを何枚か撮ったのですが、交通事故でスクーターから道路に仰向けになる状態で身体が落ちたにも拘らず、右脚と両手のレントゲン写真を撮っただけで、頭の検査はしませんでした。後日、部活動でサッカーをしていた友人に話を聞くと、「この病院は、おかしいよ。普通、サッカーの練習や試合の時は、足だけ怪我しても全身のレントゲンやCTの写真を撮るのが普通だよ。」と言っていました。私も、そういったことは理解出来ているので、この病院について、最初から疑いの眼差しを向けざるを得ませんでした。救急外来の話に戻りますと、レントゲン写真を撮った後、当直医は「写真を見ると、右ひざが骨折している様に見えるが、痛みが軽すぎる様に見える。立ってみてくれ。」と言うので、私は、その場で立とうとしたのですが、直ぐに転倒しそうになったので、当直医は「これは折れているな。」と言い、私の入院はそこで決まりました。

翌日、病室へ両親と、事故の時の対向車の運転手が来ました。対向車の運転手は、私に住所氏名を明かしたのですが、意外な事にその者は、同じ大学の他学部の2学年下の学生でした。私は、その学生が、警察官に事故の状況について説明した事や事故現場前に建っていたアパートの住人が救急車を呼んだことを聞きました。私は、右膝関節剥離骨折と両手指打撲と診断されましたが、2か月近い入院生活を余儀なくされ、他の人からは重傷だったと言われました。

私は、希望する会社の就職説明会に行くことも出来ず、公務員試験についても入院していた病院から無理をお願いして外出させて貰って受験しましたが、交通事故に遭ったことが原因で試験直前期に最後の追い込みが出来ず、全敗しました。そして、退院後もリハビリや診察で毎日の様に通院をしなければならず、就職活動も出来ないまま、大学を卒業しました。そして、後遺症というものなのでしょうか、交通事故に遭った後数年間は、私の右ひざは雨の日が近づくと痛みがくるので、私はしんどい思いをしていました。新卒での就職の権利を失った私は職を転々として今に至っており、生活に余裕のない状態が続いているのです。